東京地方裁判所 昭和24年(ワ)2272号 判決
原告 奥村衣子
被告 志賀啓造
一、主 文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
当裁判所が本件に付昭和二十四年六月二日爲した強制執行停止決定(同年(モ)第一五九〇号)を取消す。
前項に限り仮に之を執行することが出來る。
二、事 実
原告訴訟代理人は被告の原告に対する東京法務局所属公証人大和田三治作成第拾壱万弐千八百九拾弐号抵当権設定金銭消費貸借公正証書に基く強制執行は之を許さない。訴訟費用は被告の負担とするとの判決を求め、其の請求原因として被告は昭和二十四年五月二十七日、請求の趣旨記載の公正証書に基く債権を訴外高橋馨より讓受けたと称し承継執行文の付與を受け原告所有の有体動産に対し強制執行を爲した。而して右公正証書には訴外高橋は昭和二十三年八月十五日原告に対し弁済期同年十二月二十五日、無利息の約で金二十万円を貸渡し原告は右債権担保の爲其所有に係る建物二棟に付順位一番の抵当権を設定する旨及原告が右債務を履行しないときは抵当権実行に先ち他の財産に対し直に強制執行を受けても異議ないことを認諾した旨が記載されている。然し訴外高橋と原告間には何等金員の授受が無かつたのであつて、消費貸借の成立しないにも拘らず斯様な公正証書の作成されたのは次の様な理由に基くのである。即ち原告は原告所有家屋の賃借人に対する明渡の交渉方を高橋に委任したところ高橋から明渡請求をするには前記の様な虚偽の内容の公正証書を作成して置くのが好都合であるとすゝめられたので、原告に於て之に聽從したものであり、從つて本件公正証書は無効である。而も被告は右債権の讓渡を受けたと主張するけれども、債権讓渡の通知は讓受人たる被告が原告に対して爲したものであるから、被告は右債権の讓受を以て原告に対抗することが出來ない。從つて被告の爲に承継執行文を付與すべきものではないのである。仍て請求の趣旨記載の公正証書の執行力の排除を求むる爲本訴に及ぶと陳述し被告の抗弁事実を否認し(一)民法第九十四條は意思表示が眞意でないことを認識する他に非眞意の表示に付相手方との間に通謀のあることを必要とするが本件公正証書は全く訴外高橋の要求の儘に作成されたものであるから原告は高橋との間に通謀の事実はない。故に同條を適用すべき限りではない。(二)仮に通謀があつたとしても同條は通謀して爲した虚偽の意思表示についてのみ適用されるものであるが、消費貸借の様に意思表示の外に物の授受あることを必要とする契約にあつては、通謀して消費貸借の合意を仮装しても物の授受なき限り契約は不成立であつて有効無効の問題を生じないから從つて同條を適用する余地は存しない。(三)仮に仮装の消費貸借にも同條の適用があるものとしても被告は惡意の第三者である。即当時高橋は四疊半の一室を賃借して親子三人で生活し寢具にもこと欠く程極度に困窮の状態にあり、他人に二十万円を貸與する資力のないことは一見明瞭であつたし、本件公正証書には抵当権設定の登記済の認証印が押捺されていないこと、被告は嘗て質屋業を営んだことがあるので高橋から本件貸金債権を讓受けるに際して当然債務者たる原告に就き債権の有無を調査すべきであるのに拘はらず此の挙に出なかつたことから推考するときは被告が右債権の讓受に際し原告及高橋間の消費貸借契約が虚偽行爲であることを知つていたものと謂はねばならない。仮に被告が善意であつたとしても叙上の事情の下に於ては其善意なることに付過失の責に任じなければならない。而して民法第九十四條第二項に所謂善意の第三者とは、善意であることに付過失のない者を指称するものと解すべきであるから、原告は本件通謀虚偽表示の無効を以て被告に対抗し得る次第である。仮に右の主張が理由ないとしても、民法第四百六十八條第二項には債権讓渡の通知を受くる迄に讓渡人に対して生じた事由を以て讓受人に対抗し得る旨規定してあつて、其の事由の発生の始期については制限がないから債権発生に関する事由即債権不存在を以て讓受人に対抗し得るものであり、此の事は右法條が債務者の保護を目的として設けられたことからしても容疑の余地なきものであると述べた。<立証省略>
被告訴訟代理人は主文第一項同旨の判決を求め答弁として被告が原告主張の日その主張の債務名義に基き原告所有の有体動産に対し強制執行を爲したこと並に右公正証書に原告主張の様な記載の存することは認めるが其の余の事実を爭う。抗弁として仮に本件公正証書記載の消費貸借が金銭の授受が無い爲不成立であつたとしても右公正証書は原告に於て眞意でないことを認識しながら訴外高橋との間に消費貸借成立したかの如く仮装して作成されたものであるから虚偽行爲であることは明である。而して被告は昭和二十四年五月八日訴外高橋から本件公正証書に基く金二十万円の貸金債権を善意で讓受け高橋は同月十六日到達の書面で其旨原告に通知した。因つて原告は右消費貸借契約の無効を以て善意の第三者たる被告に対抗することは出來ないと陳述した。<立証省略>
三、理 由
被告が原告主張の日時東京法務局所属公証人大和田三治作成第拾壱万弐千八百九拾弐号抵当権設定金銭消費貸借公正証書に付承継執行文の付與を受け原告所有の有体動産に対し強制執行を爲した事実並右公正証書に原告主張の様な記載の存する事実は当事者間に爭いない。而して証人高橋馨の証言により眞正の成立を認める甲第四号証原本の存在並成立に爭のない乙第五号証、成立に爭ない甲第三号証の一、二に同証人及び証人奥村保秀の各証言、原被告各本人の供述を綜合すれば、原告は訴外高橋から金二十万円を借受けないにも拘らず、高橋に二十万円の消費貸借上の債務を負担し右債権担保の爲原告所有建物に付抵当権を設定する旨の公正証書を作成すれば、右建物の賃借人に対し明渡の請求をするのに好都合である旨高橋からすゝめられて之に應じ前記公正証書の作成されたこと及高橋が昭和二十四年五月八日被告に対し本件金二十万円の債権を讓渡し同月十六日原告に対し書面で債権讓渡の通知を発したことが認められ、(右認定に反する証人高橋馨の証言は措信しない。)右が遅くとも翌十七日都内の原告方に到達すべきことは当裁判所に顕著な事実である。尤も甲第三号証の一、二によれば債権讓渡通知書の通知人の肩書住所の記載の中番地の表示が空白となつて居り、又通知書を封入した封筒の裏面には発信人として被告の住所氏名の記載があり且其の表面には被告の住所地を管轄する杉並郵便局の日附印が押捺されているので被告に於て事実上発信したことが推認されるけれども、弁論の全趣旨によれば高橋が被告に対し讓渡通知を爲すべきことを委任したことが明かであるから債権讓渡の通知として欠くる所はなく、被告の承継に付ての異議は理由ないものと謂はなければならない。被告は仮に右金員の授受がないとしても本件公正証書記載の金銭消費貸借契約は通謀して爲した虚偽の意思表示であつて、被告は本件債権讓受当時右事実を知らなかつたのであるから原告は該契約の無効を以て善意の第三者である被告に対抗出來ないと主張するので此の点に付判断する。原告は單に高橋のすゝめに應じて虚偽の契約をした丈で通謀の事実はないと抗爭するけれども、既に原告及高橋が眞意に反する表示をすることを知りつゝ之を爲すことに付意思の合致あつたこと前認定の通りであるから、民法第九十四條に所謂通謀があつたものと解すべきは論なきところである。次に原告は仮に通謀があつたとしても、民法第九十四條は通謀して爲した虚偽の意思表示につき適用されるものであるところ、消費貸借の様に意思表示の外に物の援受があつて始めて契約の成立する所謂要物契約には右法條を適用する余地はないと主張するけれども、右法條は取引の安全を保護する爲に設けられたものであるから單に意思表示によつてのみ効力を生ずる場合に限らず意思表示を基盤とするものでありさへすれば、要物契約にも其の適用あるものと解するのを相当とするから原告の右主張も亦失当である。
次に原告は被告に於て右債権の讓渡を受ける当時、高橋と原告との消費貸借が仮装行爲であることを知つていたと主張するけれども右事実を認むるに足る立証なきのみならず、却て被告本人の供述によれば、被告が善意であつたことが明かであるから右主張も亦失当である。
次に原告は仮に被告が本件債権の讓渡を受けた当時善意であつたとしても、善意であることに付過失があるから、被告は右債権の讓受を以て原告に対抗し得ない旨主張するけれども民法第九十四條第二項に所謂善意の第三者とは善意なることに付過失の有無を問はないものと解すべきであるから、原告の該主張は失当たるを免れない。
原告は民法第四百六十八條第二項により、本件債権の不存在の事由を以て被告に対抗し得る旨主張するけれども、本件の様に讓渡前の債権者及債務者間に債権の存在が仮装された場合には右法條を適用すべき限りではないと解しなければならない。蓋し通謀虚偽表示により利益を享受しようとした当事者は之に基く不利益も亦之を甘受しなければならないのであつて仮装行爲が之によつて企図した目的に奉仕し得る限りに於ては仮装に係ることを祕しておきながら、一朝仮装行爲に基く債権の讓渡により第三者が介入してさきの目的が達せられなくなると卒然として仮装であると主張して、其の責任を免れようとすることは條理上許さるべきではなく、斯る場合債務者よりも寧ろ仮装の外形を信じた第三者こそ保護しなければならないからである。若しそうでないとしたら、民法第九十四條第二項は空文と化し去り、取引の安全は著しく害されるのであろう。
右説示の通り、本件債務名義の執行力の排除を求むる本訴請求は其の理由がないから之を棄却すべきものとし訴訟費用の負担に付民事訴訟法第八十九條強制執行の停止決定の取消及其の仮執行の宣言に付同法第五百四十八條第一、二項を各適用し主文の通り判決する。
(裁判官 岡部行男)